2016年3月22日火曜日

ブログ最終回、「歩き調べる」ことで理解深める

このブログの更新も142回目の今回が最後。これからしばらくは博士論文のための調査や執筆に専念したい。

ブログを始めた2012年4月からこれまでに約3万7千回の閲覧があった。今年2月までの1年間では計10,741回、1日平均では29回の閲覧があった。最後なので閲覧数の多い記事をいくつか紹介したい(記事タイトルをクリックして記事ページへ)。


◇ 全米最大ベトナム系コミュニティ、リトル・サイゴンを歩く(2013年6月6日)

もっとも閲覧数の多い記事だった。この記事で紹介したベトナム料理店にはロサンゼルスの自宅から1時間ドライブして何度も足を運んだ。最近は日本から訪ねてきた両親を連れて行き、南国フルーツ好きの母親はベトナム系スーパーでドリアンやジャックフルーツを買って喜んでいた。

◇ アジア人移民の歴史、サンフランシスコ・エンジェル島を歩く(2013年7月13日)

エンジェル島はサンフランシスコ観光の際に訪ねてほしいところ。戦前のアジア人は排斥の対象であり、エンジェル島の収容施設で厳しい入国審査を受けた。エンジェル島については別の記事『曇り空のエンジェル島、移民と捕虜が見た景色』(2016年1月19日)でもふれた。

◇ 『移民支援の英語教室①、出身も動機もいろいろ』(2012年9月12日)

妻が一年間、通っていた英語教室の紹介。3カ月間、週4日、一日3時間の授業料がわずか20ドルだった。妻は教室でできた友達とは今も仲良くつきあっている。教室については別の記事『移民支援の英語教室②、誰でも受講できる』(2012年9月15日)でも紹介した。

◇ 『社会人のアメリカ留学、貯金と奨学金』(2012年10月14日)

アメリカで大学院留学する場合のお金の話。修士課程ではめちゃくちゃ高額で、博士課程では大学で働けば安心して生活できる。留学にはTOEFL受験なども必要だから、一年半以上前から準備を始めたほうがいい。

◇ 『日系アメリカ人の過去と現在、ガーデナ市で日系イベント』(2013年7月1日)

ロサンゼルスは戦前も戦後も日本人移民の集住地。特にガーデナ市は戦前に日本人移民のコミュニティが発展し、今日でも彼らの子孫が暮らしている。日系人の経験を学ぶことで、日米関係だけでなく、国家と個人の関係についても歴史的な理解を深めることができた。


◇ 『アメリカの出産費用と保険制度、多様な国民生み出す背景』(2015年11月14日)

昨年、我が家で一番の出来事は子どもの誕生。アメリカで子どもを産む日本出身者の役に立つように具体的な情報を書き込んだ。加えて、不法滞在者(非合法移民)の出産を支える仕組みについても、日米両国の状況を説明した。


ブログ記事は内容を裏付けしながら書いていくため、やや時間がかかる。けれど、この作業を通して、実際に足を運び、見聞きしたものに対する自分自身の理解が深まった。このように「歩き調べる」ことの積み重ねでブログを楽しみながら続けることができた。いつも文章をチェックしてくれた妻に感謝。今後もいろいろなところを訪ねたい。

飛行機の窓から撮影したロサンゼルス中心部

2016年2月22日月曜日

日本からペルーへ、ペルーから日本へ、日秘移民百年の歴史

汗ばむような陽気の午前中、80歳以上の男女7人が公園でゲートボールを楽しんでいる。

「Allá. Por acá! No se puede!(そこよ。ここから!。それじゃだめよ)」
「Sí, puede, puede!(いや、大丈夫、大丈夫!)」
「Muy bien, 5番!」
「3番上がり!」

ゲートボールを楽しむ日系ペルー人二世の皆さん

ここはペルーの首都リマ市にある日秘文化会館(Centro Cultural Peruano Japonés)内の公園。スペイン語と日本語を混ぜて話すおばあさん、おじいさんは日系ペルー人二世で、毎週一回、午前中にゲートボールを楽しんでいる。

ある女性は「あなたは日本から来たんですか。私の子どもたちと孫は神奈川県に住んでるの。私の親は山口県から来たの」と教えてくれた。そして、別の女性が「建物の中に行った。たくさんおじいちゃん、おばあちゃんがいるわよ」とゲートボールを終えた後、連れて行ってくれた。

会館は、高齢の日系人のためのデイケアサービスを提供している。大きな部屋で100人近い高齢者が「幸せなら手をたたこう♪幸せなら手をたたこう♪」と手拍子を取りながら歌っている。最後は「幸せなら声出そう♪てんぷらー!」と声を合わせてから、みんなで食堂へ歩いて移動した。

ここでボランティア活動をしているおばあさんとたまたま立ち寄った僕で、足腰の弱った白髪のおばあさんに腕をかす。ボランティアのおばあさんに「ここはほとんど二世の方ですか」と聞くと「私は二世だけど、この人は一世よ」という。それを聞きながら、白髪のおばあさんは「一世でも二世でも関係ないの。健康であればいいのよ」と言った。

ここの介護スタッフによると、サービスを受ける高齢者は75歳以上でほとんどは二世。7割以上は沖縄系の日系人という。1980年代以降に日本に出稼ぎに行き、ペルーに帰国した三世も少しいるという。「ここで使う言葉はほとんど日本語です」といい、ペルー人介護スタッフも少し日本語が使えるという。


ペルーは第二次世界大戦前に多くに日本人がより良い生活を求めて移民した国の一つだ。1930年代には2万人以上の日本人移民がペルー国内に住んでいた。今でも多くの日系ペルー人が首都リマを中心に暮らしている。

リマ市にある日秘文化会館
デイケアサービスを少し見学した後は会館内にあるペルー日本人移住資料館を訪ねた。パネル33枚の裏表で、日本人移民や日秘関係の歴史をスペイン語と日本語で説明している。戦前は農業労働を中心に厳しい生活を生き抜いた日系ペルー人は、戦後は行政、経済、医療などの分野で活躍している。

「El fenómeno Dekasegi(出稼ぎ現象)」というパネルは、1980年代半ばに始まったペルーから日本への日系ペルー人労働者移動について以下のように説明している。
ドル払いで高賃金の雇用が約束され、残業代も合わせると実に魅力的な金額になったが、多くの日本人がやりたがらない、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事であった。 
今から100年前、日本は厳しい経済・雇用情勢に直面していた当時、契約移民としてペルーにやってきた1万8千人の日本人移住者が海岸地方の農場やジャングルのつらい条件で働いていたが、その子孫が今日の出稼ぎ労働者である。
現在、日本ではこの出稼ぎ現象の中で、日本に渡って定住している日系ペルー人約4万8千人が暮らしている。明治維新が生み出した経済格差が原因となってペルーに移り住んだ人々の子孫が、労働力を求める日本経済に吸収されている。日本に働きに来た親と一緒に来日した子どもたちは日本での教育や就職などの面で課題を抱えている。

このパネルが説明しているように、日本で働き、また、育つ日系ペルー人の状況を100年以上の日本史の枠組みの中で捉え、外国の問題ではなく、日本の課題として認識し、政府や自治体などが支援していくことは必要だ。これは明治維新以降の日本史を理解し、それを実践できるかどうかという問題でもある。

興味深いことに、資料館には第二次世界大戦中の日系ペルー人についての説明がほとんどなかった。日本語では「多くの苦しみ」とだけ書かれており、アメリカ合衆国への日本人引渡、またそれに伴う強制収容などについては何もふれていない。資料館の担当者に尋ねると、苦しい経験が多かったため資料館ではあまりふれないようにしていると教えてくれた。こうした展示の在り方を通して、ペルーの日系社会が戦争をどのように記憶しているのかについて少し理解することもできた。


今年はアメリカ大統領選の年だけれど、ペルーでも今年4月に大統領選挙がある。

アメリカにも多くの日系人が暮らしている。日系アメリカ人がアメリカ大統領になる可能性はゼロではないものの、なかなか厳しいのが現状だ。一方、ペルーでは1990年に日系二世のアルベルト・フジモリ(スペイン語では、フヒモリ)氏が大統領に就任している。

なぜマイノリティの日系人がペルーで大統領になることができたのだろうか。ある観光タクシーの運転手は「当時は激しいインフレと汚職で国民がうんざりしていたから、チーノ(フジモリ氏の愛称。チーノは「中国人」という意味だけれど、東洋人全体に使われる言葉)なら何か変えてくれると思った」と教えてくれた。

現在、フジモリ元大統領は軍による民間人殺害事件で有罪判決を受けて収監されている。ただ、彼が危機的状況のペルー経済を立て直したという評価は定着している。

そのフジモリ元大統領の長女ケイコ・フジモリ氏が今年の大統領選挙に立候補している。2011年の大統領選挙では2位で落選した。現在の世論調査では人気を集めているという。リマ市内にもケイコ氏の選挙ポスターが目立った。


リマ市内各地に掲示されたケイコ・フジモリ氏の選挙ポスター。他候補のポスターも至る所で掲示されていた。
大統領選挙について、あるタクシーの運転手は「フジモリ大統領を好きな人もいるけど、嫌いな人もたくさんいる」。別の運転手は「ペルー人の投票先は一日で変わるから、世論調査は当てにならない」と話していた。あるペルー人の友人は「ペルーでは民主主義はまだ定着していない」と言った。日本ではどうだろうか。そんなことも考えさせられるペルー滞在だった。

ペルーに行ったら必ず食べたいセビーチェ。日秘文化会館近くのショッピングモールで食べて大満足。

2016年2月15日月曜日

メキシコシティの都市生活、壁画が伝える歴史

博士論文のための史料調査でメキシコの首都メキシコシティに来た。かつてアステカ文明の都テノチティトランであったこの都市には現在、約2千万人が暮らし、ラテンアメリカ経済の中心の一つとなっている。

セントロと呼ばれるメキシコシティ中心部のホテルに宿泊。メトロブスというバスが運行されていて、ベニート・フアレス国際空港からホテルへは40ペソ(300円程度)で簡単に行くことができた。

到着した翌朝、メキシコ政府の史料館に歩いて向かう。タコスの屋台に立ち寄り、大釜で煮込んだ豚の皮やら何やらが盛られたタコスを食べた。ピコ・デ・ガジョ(細かく刻んだタマネギ、トマト、唐辛子を混ぜたもの)やサルサ、レモンを好みでかけた。脂肪分と汁気が多く食が進む。

「スルティード」という土手焼きのような感じのタコスは30ペソ(250円程度)。
史料館で夕方まで作業。帰り道に喫茶店に入った。コーヒーを一口飲んだところで、店主の50歳代くらいの女性が「メキシコ人ですか」と話しかけてきた。アジア系メキシコ人の可能性もあるから、そう尋ねてきたんだろう。

「日本人です」
「そうですか。メキシコはどうですか」
「素敵ですね」
「日本も素敵でしょ」
「そうですね。それぞれ文化も違いますね」

なんて話していると、なぜか途中から政治の話に変わった。

「私は小学校の先生をしていたんですけど、早期退職して喫茶店を開いたんです。教師に対する風当たりが厳しくて。教職員労働組合のリーダーの女性が汚職で逮捕されたでしょ。メキシコは世界の汚職ランキング3位ですよ。前は1位だったけど、ちょっと悪い枝を切り落としただけでしょう」と笑う。女性は勢いよく話し、その唾しぶきが僕のコーヒーに何度も入りそうになったから冷や冷やした。

「日本は汚職はないでしょ」と聞くので「ありますけど、他の国より少ないと思います」と答えたついでに、「メキシコではなんで選挙の仕組みがあっても大統領は人気がないんですか」と質問した。特に現在のペニャ・ニエト大統領については、いい評判をあまり聞かない。

女性は「選びたい候補者がいないのよ。それに投票率が低いから、本当は支持されていない人が大統領になるの」と残念そうに話した。この点は日本もそんなに変わらないか。けれど、僕は投票する。この女性も政治の話をふってくるくらいだから、投票しているんだろうか。


メキシコシティのセントロでは、朝からテントを張った食事や食料品、小物の露店が至る所に現れる。交通量も多く、特に朝夕は自動車、バス、タクシーがひしめき合いながら進む。地下鉄も乗客であふれており、大都市の景色がそこにある。

幼稚園の前では保護者を相手に野菜を売る露店もあった。
セントロでは同時に貧困も目立つ。僕のホテル周辺はホームレスが多かった。だいたいは中高年の男性だったけれど若い男女もいた。あるホームレスの若い女性が地べたに寝転んで仰向けになっている。親しそうな男性が大事そうに毛布にくるんで何か抱えている。うまれて間もない赤ちゃんだった。地下鉄に乗ると、幼い子どもを抱えて物乞いする母親の姿もあった。

そんな状況を目の当たりにして、あるメキシコ人の知人が言った言葉を思い出した。「メキシコは貧しい国ではないのよ。貧しい人たちの国なの」。メキシコはラテンアメリカの経済大国で高層ビルでもコンビニでもなんでもある。セントロを少し離れると、日本の都市部と変わらないような景色もある。けれど、そうしたメキシコシティの都市生活は圧倒的な貧困と隣り合わせでもある。

日本はどうだろうか。もちろん日本とメキシコの経済状況はだいぶ違うけれど、経済成長しても格差是正を念頭に税収を再分配していかなければ、どこの国であれ「貧しい人たちの国」の方向に進んでいく。


とはいえ、メキシコでは社会保障や教育支援制度がいろいろ整っている。日本学生支援機構によると、国立大学の授業料は年間2,600ペソ(2万円程度)以下という。メキシコの大学はどんな感じだろうと思い、メキシコ在住の日本人の友人夫妻と一緒にメキシコ国立自治大学を訪ねた。

メキシコの難関校である同大学の歴史は、スペイン帝国がアステカ帝国を征服して間もない1551年にさかのぼる。現在のメインキャンパスは1949~1952年、60人以上の建築家や技術者、芸術家が関わって建設され、その優れたモダニズム建築を理由にユネスコが世界遺産に登録している。

僕の目当てはキャンパス公園内の建物に描かれた巨大壁画。中央図書館の四方の壁は「先史時代」、「植民地時代」、「現代」、「大学と今日のメキシコ」をテーマにした壁画で覆われている。図書館が公園の緑と空の青に挟まれて、その空間全体が一つの巨大な芸術品のようだった。公園では学生や市民がくつろいでいた。僕も友人夫妻とグアナバナというフルーツのかき氷を食べてゆっくりした。

壁画で覆われたメキシコ国立自治大学の中央図書館。フアン・オゴルマンが制作した。

メキシコでは観光地だけでなく、地下鉄構内などでも迫力ある壁画に出会う。セントロにある国立宮殿内に芸術家ディエゴ・リベラがメキシコ史を題材に描いた壁画も圧巻だった。メキシコの紙幣500ペソには、リベラとその妻で芸術家のフリーダ・カーロの肖像が描かれていることからも、この国が芸術を誇りとしていることが分かる。アメリカ大陸とヨーロッパの要素が時間をかけて混ざり合い、社会的な問題を抱えながらも、新しいものに生まれ変わるようなメキシコの歴史の一部を理解するには、こうした壁画の前に立つことも欠かせない。

学長塔はダビー・アルファロ・シケイロスが制作した壁画「人民のための大学、大学のための人民」で覆われている。

2016年1月19日火曜日

曇り空のエンジェル島、移民と捕虜が見た景色

サンフランシスコ近くのバークレー市に史料調査で来た。図書館が閉まっている週末、サンフランシスコ湾内のエンジェル島(Angel Island)に向かった。

エンジェル島は1910~1940年に移民収容所が置かれ、中国人や日本人らが入国審査を受けた場所だ。この島には約2年半前に初めて訪れたけれど、道を間違えてお目当てだった移民収容所だった建物を見ないまま島を後にした。そのとき「また来ないと行けないな」と思っていたので、今回再び訪れることにした。

サンフランシスコから出るフェリーで島に向かった前回と違い、今回はティブロン(Tiburon)という町から出るフェリーを利用。小雨が降る午前11時にフェリーに乗り込んだ。こんな天候なので、乗客は僕と妻、子どもの他に夫婦一組だけだった。

10分ほどで到着し、さっそく移民収容所へ。移民収容所の建物は現在、当時の様子を伝える物品や写真を展示した移民博物館となっている。同館スタッフの若い男性が館内をガイドしてくれた。

中国や日本から来た多くの移民が滞在したエンジェル島の移民収容所

入り口から二階に上がる階段を上りながら、「移民たちもこの同じ階段を上り下りしてたんですね」とスタッフに声をかけると、「いや、移民はほとんどの時間を建物内で過ごしていたので、ほとんど使うことはなかったと思います」と教えてくれた。

ここではロシア系ユダヤ人などヨーロッパ人移民も収容されたけれど、多くは中国人や日本人移民だった。収容所の壁にはあちこちに移民が刻んだ文字が残っている。中国人の入国は、アメリカ市民の子どもでない限り厳しく禁止されていたため、彼らの収容期間は特別長かった。まともな食事も与えられずに過ごす苦労を漢詩にして刻む中国人も少なくなかった。

何度も塗り重ねたペンキの下に刻まれた漢字がうっすら見える。

スタッフに「文字を刻む道具を持つことは許されていたんですか」と聞くと、「ええ。木彫りの技術のある人が仲間の詩を刻んでいたようです」、そして「こうした文字が残っていたことで、その歴史的な価値が見いだされ、保存運動につながりました」。

とくに中国人が多かったため、彼ら専用の大部屋があった。ここには約200人が収容されていたという。この同じ部屋が、第二次世界大戦が勃発すると、日本人とドイツ人の捕虜を収容するために使われていた。日本語の落書きもあった。よく意味は分からないけれど、「重田氏...第二回横浜行先発隊...」などと鉛筆で書いてある。

第二次世界大戦前は中国人移民、戦時中は日本人捕虜が収容された部屋

スタッフが「アメリカ軍の最初の捕虜となった日本人はこの部屋に収容されたんです。その人は、そのあと、トヨタのブラジル現地法人の重役になったみたいですよ」と教えてくれた。その後、エンジェル島の公式サイトとウィキペディアを見ると、その男性は酒巻和男さんという男性で、真珠湾攻撃に参戦後、米軍に捕えられたという。エンジェル島は日米関係の変遷を伝える場所でもある。

帰りのフェリーは午後1時20分。スタッフの丁寧なガイドで今回、島に来た目的を十分に果たせた。天気が良ければ景色は最高だろうけれど、いろいろな国の移民や捕虜がこうした曇り空の中で不安な日々を過ごしていたんだろうと思うと、それはそれで感慨深いものがあった。

エンジェル島から見る曇り空のサンフランシスコ湾

エンジェル島を出た後はサウサリートという町まで行き、評価サイトYelpでそこそこ評価の良かったレストラン「Fish.」でクラムチャウダー(9ドル)とフィッシュアンドチップス(22ドル)を食べた。観光客相手の値段だけど、それぞれ美味しかった。

タラのフィッシュアンドチップス。酸味の効いたタルタルソースが美味しかった。
・エンジェル島の歴史について書いた当ブログの過去記事は、こちら

2016年1月9日土曜日

1930年代の「モダン用語」、日本人移民の日記帳

史料調査中、戦前のロサンゼルスに住んでいた日本人移民の日記を読んだ。真珠湾攻撃当日の様子などが書かれており参考になった。タイムマシーンはないけれど、こうした一次史料にふれて、少しだけ過去にタイムスリップしたような気持ちになる。歴史研究においては、もちろん日記の内容が大事だけれど、当時の人が使っていた日記帳自体もおもしろい。

この日本人移民が1930年代前半に購入した日記帳(博文館)には「モダン用語」帳が付いている。200字以上の「モダン用語」が五十音順に並び、簡単な説明文が書き加えられている。

現在、我々が当たり前のように使っている言葉やちょっと古臭く感じる言葉が、1930年代は都会風で新鮮な言葉として使われていたことが分かる。また、当時の女性観/男性観や社会状況なども伝わってくる。以下にいくつか紹介したい。
アインシュタイン:この物理学者の相対性原理は難解なので、分からぬことを「どうもアインシュタインだ」という。
おぺちょこガール:軽薄なおっちょこちょいな近代娘。
彼氏:彼と同意だがなんとなくモダンな感がある。
サイレン・ラブ:正午のサイレンを合間に事務所を飛出して相会う種類の甘い恋愛。
サボル:Sabotageの略で怠業という意味の無産語だが今では一般に怠けることにも用いる。
左翼小児病:一つの原因に執着して戦術の融通性を忘れた拙劣な階級闘争を意味する社会運動語。
スピード時代:現代のように変転の激烈な時代をいう。
だんち:段違いの略語、また断然違うの略語。
とっちゃんボーイ:いい年をしたモボ(モダンボーイ)型の男
ぽしゃる:おじゃんになる、駄目になる等の意。
もち:勿論の略。
もちコース:勿論とof courseを半分宛つけた云い方。 
マルクス・ボーイ:日本で作った英語で本当のマルクス学徒ではなくプロレタリア派のことを喋りながら実はプティ・ブル男のこと。
こうして見ると「サボル」や「ぽしゃる」などは2016年も現役で、「どうもアインシュタインだ」や「おぺちょこガール」などはほとんど聞かない。「とっちゃんボーイ」や「もち」はやや古い感じがするけど、聞かなくもない。「だんち」は個人的には現役という印象だ。

ここでは「左翼小児病」、「サボル」、「マルクス・ボーイ」しか紹介していないけれど、階級闘争を背景したモダン用語も多かった。一部の左翼的な人々を蔑む言葉は、今日も異なる文脈で形を変えながら存在している。

それぞれの言葉の寿命はそれなりに歴史的な要因があるだろう。個人的には「スピード時代」という言葉が印象的だった。当時の人も今の人もそれぞれが生きる時代をある種の「スピード時代」と捉えている。もうちょっとスローダウンする時代があってもいいと思う。

1930年代と2010年代はどちらも大きな経済危機を経験した直後の時代だ。資源を急いで消費せず、無駄遣いせず、スローな分野に利潤と幸福感を見出すような新しい資本主義の形、そして価値観のイノベーションが必要なんじゃないだろうか。

2015年12月17日木曜日

二重国籍と排日感情、「国籍留保制度」の歴史

日本国籍の両親のもとに、アメリカで生まれた子どもは、法的には何人になるのだろうか。

日本では、日本国籍の母親または父親のもとに生まれた子どもは日本国籍になる。日本国籍を持つ親の血が流れていることが理由になるため、こうした国籍の決め方を血統主義という。一方、アメリカでは、アメリカ国内で生まれた子どもはアメリカ国籍になる(国籍は一般的に市民権citizenshipと呼ばれる)。生まれた場所が理由になるため、こうした国籍の決め方を出生地主義という。

というわけで、日本国籍の両親の子どもとして、アメリカで生まれた子どもは、法的には日本人であると同時にアメリカ人、つまり二重国籍者になる。

とはいえ国籍は人間が作り出した制度だから、その取得には手続きが必要だ。アメリカ国籍については、妻が出産した病院で手続きした。

陣痛分娩室で無事に出産を終えた後、妻と赤ちゃんは産後ケア室へ。そこで出生証明登録に必要な出生情報ワークシートを手渡された。赤ちゃんの氏名、性別、生まれた時刻、両親の氏名などを書き込む。出生証明書には記載されないものの、アメリカ政府保健福祉省の統計のために両親の人種・エスニシティに加え、最終学歴も記入する。裏面では母親の妊娠経過や喫煙の有無などについて答える。

出産したその日に、記入済みのワークシートを看護師さんに渡した。翌日、出生証明担当の職員が部屋に来て、ワークシートの内容に間違いがないか確認した後、「3ヶ月後に出生証明書が手に入ります」と教えてくれた。そのとき、子どもの出生を確認したことを示す病院独自の文書もくれた。これで子どものアメリカ国籍の手続きを終えた。

次は日本国籍。アメリカ国籍は病院でほぼ自動的に手続きが進むけど、こちらは自発的に手続きしないと子どもは日本国籍を失う。国籍法第12条は外国で生まれた子どもについて以下のように定めている。
出生により外国の国籍を取得した日本国民で国外で生まれたものは、戸籍法の定めるところにより日本の国籍を留保する意思を表示しなければ、その出生の時にさかのぼって日本の国籍を失う。
ロサンゼルス総領事館サイトによると、出生から3ヵ月以内に「日本国籍を留保する」欄に署名・押印した出生届を他の関係書類と一緒にロサンゼルス総領事館に提出せよとのこと。というわけで妻の退院した翌週、領事館に足を運んで書類を提出。領事館のスタッフが「一ヶ月ほどすれば戸籍にお子さんの名前が入りますので、その写しとアメリカの出生届を持って、お子さんのパスポートの申請に来てください」と教えてくれた。


僕らが手続きした、日本国籍の喪失を防ぐこの制度を「国籍留保制度」という。これを日本国籍を取得するために作られた制度と思う人は多いだろうけれど、実はこの制度は日本国籍の喪失を可能にする1924年の国籍法改正に伴って作られた。

1924年、白人至上主義とそれに伴う排日感情の高まりから、アメリカ政府は移民法を改正し、日本人移民を全面的に禁じた。そのため、1924年の移民法は「排日移民法」と呼ばれることもある。

このように排日感情の強い時代に、アメリカで生まれた日本人の子どもが、アメリカ国籍と同時に日本国籍を保持していれば誤解や差別の対象になった。そこで日本政府はこの年、日本人のもとに生まれた子どもが、日本国籍を留保する意思を示さない限り、自然と日本国籍を「失える」ように国籍法を改正した。国籍離脱自体は1916年から可能であったけれど、1924年以前に生まれた日本人の子どもについても希望次第で国籍を離脱できるとした。

1924年の7月、朝日新聞は国籍法改正案について「二重國籍問題の解決」という見出しで報じている。改正の理由として「時勢の進退」に合わせるためとしているが、この「時勢」とは日本人移民を全面的に禁じるアメリカの排日移民法を指していると考えて間違いない。

当時、アメリカで暮らす日本人移民の親たちの中には、アメリカ生まれの子どもが日本国籍を理由に誤解や差別にあわないように、あえて出生届を出さず「国籍を留保する」手続きを行わなかった人はたくさんいた。

1924年以前に生まれた日系人の子どもたちの国籍離脱も相次いだようだ。大阪毎日新聞もこの年の7月、「國籍離脱者の激増、排日法に驚かされた、アメリカ在住の同胞」という見出しで報じている。
排日移民法がやかましくなってから在米邦人の國籍を離脱するものが驚くべき増加を呈してきた。(中略)一番多いのは排日の本場カリフォルニア州の千七十二人でワシントン州の二百八十九人、ハワイの二百三十人なども飛切り多く(中略)アメリカ生れの日本人は日本の法律とアメリカの法律に囚はれて二重の國籍を有し男子は徴兵の上にいろいろの不便を感じアメリカ人から誤解をうけることが多かった。
それから約90年後の2015年に僕らはカリフォルニア州で子どもを授かった。日本の国籍法では22歳までに日本国籍かアメリカ国籍を選ぶことになっている。いずれにせよ、僕らが総領事館に出生届を出したとき、二重国籍状態を理由に子どもが差別を受けるかもしれないと心配する必要はなかった。しかし、僕たちが利用した「国籍留保制度」の背景には、戦前のカリフォルニア州における日本人に対する激しい人種差別があり、二重国籍は日系人に対する差別の理由であったことは忘れないようにしたい。


今日でも国籍のあり方によって人権が侵害されることがある。日本でも国籍や戸籍を理由にした差別が存在する。

テロ事件の被害にあったフランスでは憲法を改正して、テロ行為に関わった二重国籍者からフランス国籍を剥奪できるよう憲法改正の議論が進んでいる。こうした憲法改正が戦前の日系人に対する差別のように、二重国籍者への偏見を強化する可能性もある。

その一方で、国籍がないことを理由に人権を侵害されている人も多く存在する。国連難民高等弁務官事務所は、世界に約1,200万人の無国籍者がいると推計している。二重国籍であれ、無国籍であれ、それが理不尽な差別の原因にならないように、国家が個人の国籍をどのように扱っているか、また、過去に扱ってきたか、ということに対して常に警戒しないといけない。

※日本の国籍法における国籍離脱制度は1916年の法改正で明記されている。

・日本政府に対する出生届については、こちら
・大阪毎日新聞の記事は、こちら
・国連難民高等弁務官事務所のサイトは、こちら
・アメリカ政府保健福祉省の出生届調査については、こちら

2015年12月12日土曜日

大学トイレの落書き、人種・階級・セクシャリティと差別

大学キャンパスでしばしば使うトイレの壁に、ロサンゼルスならどこでもありそうな学生の落書きがある。この落書きは、非白人の学生が白人の学生を蔑む内容だった。

「フラタニティに入っているやつは、だいたい、アホで、白人で、ろくでもないやつ、金持ちだけど」

フラタニティ(fraternity)とは男子学部生の学生団体。一つの大学に複数のフラタニティがあり、パーティを開くなどして友情を深める。アフリカ系やアジア系など非白人のフラタニティもあるけれど、フラタニティといえば白人男子学部生が羽目を外して遊んでいるというイメージが強い。また、大学キャンパスでは少数派である非白人の学生が周辺化されていることに対する不満も少なくない。この落書きの背景には、人種と階級を巡る学生間の緊張関係がある。

この落書きの左隣には、「フラタニティのファッグ(同性愛者に対する差別語)←本当のファッグ」と明らかに差別的な言葉を使って、フラタニティの学生を攻撃している。ここでは人種的マジョリティの白人学生に対する不満と、性的マイノリティの同性愛者に対する差別が絡む。

そこに別の学生が「なんでまだファッグなんて言葉を使ってんの?」と黒のペンで書き、さらに別の学生が「なんでかというと、こいつらがアホだから」と青のペンで書き加えている。さらに青のペンの学生は「フラタニティのファッグ←本当のファッグ」という元の落書きに対して「ファック・ユー」と矢印付きで付け加えていた。

複数の学生による落書きはここらへんで止まると思いきや、それら全体のやり取りに対して、またまた別の学生が「自分のおかんとやってまえ、ボケナス」とスペイン語で大きく書き加えていた。

人種、階級、セクシャリティが絡む攻撃的または差別的なやり取りに、言語を通したエスニシティ的な要素も加わり、この一連の落書きだけで、アメリカ人学部生の生活における差別構造や緊張関係がなんとなく浮き上がってくる。

けれど、なぜ差別語を含むこの落書きが半年以上ずっと消されずに残っているのだろうか。その理由の一つとしては、軽蔑の対象が多数派の白人であるという点が挙げられる。もしも、この落書きが少数派の非白人学生に対するものであれば、すぐに誰かが大学に報告し、人種差別事件として問題になるだろう。

おそらくフラタニティに所属する白人学生がこの落書きを見ても、それ自体がキャンパス内の白人学生の立場に脅威を与えないため、「はいはい」と笑って済ますことができるだろう。ある意味では、この落書きが放置されていること自体がキャンパス内で白人学生の力が強く、構造的に被差別の対象ではないという状況を裏付けている。

このように、どちらかといえばリベラルな環境であるはずの大学キャンパスでも、人種・エスニシティ、階級、セクシャリティを巡る差別構造や緊張関係を観察することはそれほど難しいことではない。